清冽な琵琶湖の空気から春の訪れを感じさせる今日この頃。本日は京阪四宮駅を途中で降りて適当に歩いてみました。この辺りは逢坂の関という関所があったそうです。道中の案内によると、逢坂の関は京の都を守る重要な関所である三関の一つで、平安後期からは徐々に形骸化していったとあります。
僕たちが小学2年生のころなのですが、先生が百人一首を授業に組み込んでいて、毎朝カルタ取りをしていました。初めての百人一首で先生が初めに詠んだ歌が何とですね。
“これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関”
そして先生が詠み人「蝉丸」と言った瞬間、教室が湧いたのを今でも覚えています。当時小学生だった僕たちの心に、歌そのものより遥かに「せみまる」という響きが突き刺さったのです。この逢坂の関にはまさに琵琶と短歌の名手だった蝉丸を音曲芸道の祖神として祀った「蝉丸神社」があるのです。
当時は―――今もですが、百人一首に興味を持ったことなど一度もなかったのですが、こうして歩きながら蝉丸の詠んだ歌を考えると、感慨深いものがあります。関所は遥か昔に消え去り、あらゆる垣根が取り払われた現代。人生の節目を振り返ってみると学校教育の場、社会生活の場、数えきれない人と出会ってきたものです。
伝承によると、蝉丸は逢坂の関に住み、関所を往来する人たちを見てこの歌を詠んだそうです。逢坂の関を歩いてみると、滋賀から京都へ続く道は現代においてもまさに一本道。なるほど京の都から東の国への交通の要衝だったわけで、車も電車もない時代そこには数えきれないほどの出会いと別れがあったのでしょう。
時代は移ろい人々の価値観や考え方は大きく変わったに違いありません。それでも僕は、逢坂の関を一人寂しく歩き、神社の石碑に刻まれた蝉丸の短歌を改めて読んでみて思うのです。人間の根底にあるものは、蝉丸の時代から変わることなく連綿と受け継がれているのだと。関所を往来する人々の姿を見て、蝉丸は何を考えていたのでしょうか。
“これこそがまさに、行く人も帰る人も、見知った人もそうでない人も、出会っては別れる逢坂の関なのだなあ”
物思いに耽りながら歩いていると、あっという間に滋賀県大津市へとたどり着きました。
さて、行き帰りで使った京阪電車は一時期「ちはやふる」というカルタ漫画の絵が描かれたイタ電車と化していましたが、この近くにはかるたの聖地近江神宮があるのです。それはまたの機会に、その時は百人一首で逢坂の関を詠んだもう一人のことの思い出でも。